2025年


ーーー3/4−−−  時計の無い登山


 
朝4時に目を覚まして、石油ファンヒーターを点火する。それからまたベッドに入って、うだうだと時間を過ごす。5時になったらベッドから起き出して、着替え、ストレッチ体操をして、一日の活動が始まる。というのが毎日の朝のパターンなのだが・・・

 先日の朝4時45分ころ、ベッドの中でスマホで天気予報を見ていて、たまたま画面の隅の小さな時刻表示を見たら、5時15分を示していた。それで、ギョッとした。部屋の壁掛け時計が、30分遅れていたのである。

 たぶん、電池が減ったために、遅れが生じたのだろう。新しい電池と入れ替えたら、12時間経っても正常に動いている。原因は電池の劣化に間違いない。

 それにしても、これが何か特別な事情があり、時間遅れが致命的になるシチュエーションだったならと想像すると、ゾッとする。

 電池が弱くなっても、平然と動いて、狂った時間を刻んでいるのが、問題だ。むしろピタリと止まった方が良い。ちなみに、ゼンマイ式の振り子時計や、自動巻きの腕時計だったら、日に僅かな進みや遅れはあってもそれは本来の性質による誤差であり、駆動部のパワー不足で一晩のうちに30分も遅れ、しかもそのまま動き続けることなど無い。潔く針を止めて、自分がもはやダメになった事を知らせるのである。

 ホームセンターで買った安物の時計だから、仕方ないと言われればそれまでだが、それでも私は、「時計としての役目を自覚して欲しい」と、言い聞かせたかったのであった。 

 ところで、こういう機会に遭遇すると、あらためて毎日の生活が、完全に時計に依存していることを実感する。一日の中で、最も頻繁に行う行動は、時計を見て時刻を確認する事だ、と言っても良いくらいだろう。

 「イージーライダー」という映画があった。ヒッピーのような若者二人が、バイクで気ままな旅に出るストーリーだが、彼らが出発前に腕時計を投げ捨てるシーンがあった。時間に支配されたくないという、現代文明に反抗する若者の心理を、象徴的に表していた。

 こちらは実際に有った話である。会社勤めを始めて独身寮で暮らしていた頃、同期入社の友人が一人で登山に出掛けた。たしか雲取山から甲武信岳方面の、奥秩父連峰の縦走だったと記憶している。二泊三日程度の行程である。その登山を、彼は時計を持たずに歩き通した。

 イージーライダーの真似をしたわけでは無い。時計を持って行くのを忘れたのである。ずいぶん間の抜けた話であるが、あの時代のあの年齢の若者だから、そういう事があってもおかしくは無い。

 現地に着き、登山を開始する段になって、時計が無いことに気が付いた。計画を諦めて帰ろうかとも考えたが、何とかなるだろうと思い直して、山に入ったそうである。登山は、コースタイムを参考にして行動をするから、時計無しではとても心細い。太陽が出ていれば、時間の見当はある程度付くが、曇っていればそれも叶わない。暗くなるまでに、予定した山小屋までたどり着けるか、心中に不安を抱えながら、山道を辿ったに違いない。

 寮に戻った友人からその顛末を聞き、「それは大変な事だったね」と話すと、予想外の返事が返ってきた。「たしかに緊張感はあった。しかし、時間が分からないことで、むしろ神経が研ぎ澄まされ、周囲の状況を敏感に感じるようになった。そして、大自然の中に溶け込んだような気持ちになった。それは、これまで経験したことの無い、有意義な出来事であった」と。




ーーー3/11−−−  楕円形のマンホール


 朝食の時に食べる海苔は、缶に入っているのだが、その缶がどういうわけだか円筒ではなく、断面が楕円形の筒である。その缶を見ると、時々思い出す事がある。会社勤めをしていた頃の話である。

 私が配属された部署は、ユニット設備を扱っていた。ボイラーや水処理設備など、一式まとめてメーカーに発注する設備である。私はボイラーに関するセクションにいたので、ボイラーに関してはいろいろ勉強をしたし、メーカーの工場へ出向いて製造中の現物を見る事もあった。

 ここで言うボイラーとは、蒸気を発生させる機器である。化学プラントでは、ポンプやコンプレッサーを駆動するのに蒸気タービンを多く使う。また、機器や配管の温度を上げるために蒸気を使う場合もある。そのためにボイラーが必要なのである。

 ボイラーには、スチームドラムというパーツがある。燃料を焚いて発生させた蒸気をいったん溜める容器である。ソーセージのような形をした中空の圧力容器であり、プラントで使う規模のボイラーなら、中に人が入って作業が出来るほどの大きさがある。スチームドラムは、ボイラーの上部に横向きに設置される。円筒形の部分は、ぶ厚い鋼板を曲げて丸め、合わせ目を溶接で接合する。そうして出来上がった円筒の両端に、お椀のような形の鏡板を溶接で取り付ける。鏡板の中央には丸い穴が開けられていて、人が出入りするマンホールとなる。

 マンホールの蓋は、スチームドラムの内側から閉まるようになっている。ボイラーを焚いて蒸気が発生し、内部の圧力が上がると、マンホールの蓋は外に向かって押される。その力で、ピッタリと閉まる仕組みなのである。ここまでの話でお気付きの方もおられると思うが、スチームドラムに鏡板を溶接する際には、あらかじめマンホールの蓋を内部に入れておく必要がある。蓋の直径は穴より大きいので、外部から入れることは出来ないからである。 

 メーカーの工場で、技術者から聞いた話だが、蓋を入れるのを忘れたまま、鏡板を取り付けてしまうという事件が、稀に発生するそうである。そうなると、鏡板の接合部を切断して取り外さなければならず、一大事となる。ちょっと想像し難いような重大なミスだが、意外にこういう信じられないような失敗は生じるものなのかも知れない。鏡板を溶接する作業の前には、中に蓋が入っている事を十分に確認する手順になっているとのことであったが。

 そのような失敗を防ぐために考案されたのが、楕円形のマンホールである。楕円形なら、蓋を外部から入れる事が可能だから、あらかじめ中に入れておく必要は無い。世の中のボイラーは、円形のマンホールが主流であると思うが、中には楕円形の物も作られているのである。円形の物に比べたら、穴を開けるにしても、蓋を作るにしても、はるかに面倒な工程になるだろう。それでもそのような形にすると言うのだから、「入れ忘れ」の失敗がいかに手痛いものか想像できる。

 海苔の缶の、楕円形の蓋を見るとつい、ボイラーのマンホールを思い出す私である。




ーーー3/18−−−  機械刃物、初めての事故


 
先週の木曜日の昼過ぎ、工房で作業中に指を切った。象嵌アクセサリーの工程の一つ、バンドソーでパーツの輪郭を切り抜く加工の最中に、バンドソーの刃で左手の親指の先を切ってしまったのである。これまで、小刀やノミの刃で切り傷を負った事はあったが、機械刃物で怪我をしたのは、開業以来35年目にして初めての事である。事故が発生した瞬間は、何が起きたか分からず、一呼吸おいて被害の状況を認識した。その短時間の、ドクドクとした心の動揺は、昨年夏の骨折事故と類似していた。

 バンドソーと言う機械は、帯状の刃が上下二つの車輪の間をグルグル回る構造で、刃が垂直以下方へ向かう位置に作業テーブルがあり、そこに材を置いて切る。細い刃を使えば、曲線切りができる。糸鋸盤では加工できない厚い材でも、切ることができる。今回加工していたのは、ごく小さなパーツだが、糸鋸盤よりスピーディーに加工できるので、私はバンドソーを使って来た。小さい物を加工する際は、手の指が刃に接近するので、細心の注意が必要である。

 事故のいきさつはこうであった。輪郭を切り抜く作業では、切り落としが出る。丸鋸盤にしろ、バンドソーにしろ、切り落とした材が災いを招くことは良く知られている。切り落とした材は、勝手に動いてしまうような不安定な状態にあり、それに刃が触れることで予想できない事態が生じるのである。切り落としは安全な場所へどけなければならないが、その際には、特に丸鋸盤の場合などでは、木の棒を使うのが安全上の配慮である。

 今回は、切り落としを左手の指でどけようとした。バンドソーでは、そういう事もよくやるし、もちろん安全だと思ったからである。ところが、どけようとした時に、切り落としが思わぬ動きをした。バンドソーは車輪の回転で風が起こるので、小さな木片は不意に動いたりする。しかも切り落としが円弧状の異形だったため、指で払っても意図した方向に行かず、バンドソーの刃に触れてバンと弾けた。その衝撃で刃が手前に振れて指先を切った、あるいは跳ねた切り落としに指を持って行かれて、刃に触れて切った、ということであったと思われる。大きな動力で走る刃は、何ら躊躇なく、左手の親指の先に切り込んだ。爪の上から肉に向かって刃が入り、慌てて引っ込めた指先には、ぱっくりと傷口が開き、血が噴き出した。

 機械作業に際しては、日頃から十分に注意を払っていたつもりである。しかし、事故というものは、起きる時には起きるものである。ともあれ、動いている刃のすぐそばで指を使う作業は、危険が大きい。比較的安全と言われているバンドソーでも、それは同じ。そこに若干の油断があったのではないかと指摘されれば、反論の余地は無い。

 出血を止めるために、ティッシュを当て、手を高く上げた。そのまま30分ほど経てば、血は止まるはずである。左手を上げたまま、ただじっとしているのは無駄なように感じ、再びバンドソーに向かって、右手だけで作業を続けた。左手は、脇にある残材のラックの高い所を掴んだまま。これは、傍から見れば、異様な光景だったろう。

 出血が止まったのを確認して、母屋へ行き、手当をした。処置はしたものの、患部がジンジンとうずいて何だか不安だった。医者へ行って、傷口を縫って貰った方が良いのではと言う話になった。そこで、骨折でお世話になった穂高病院へ出向いた。ドクターの話では、傷口は肉が持って行かれているので、しかも爪の際なので、縫ってもあまり意味が無いとのこと。傷は小さいし、出血も止まっているから、薬を塗って絆創膏で止めるだけで良いということになった。ただ、しばらくの間は、濡らしたり、ぶつけたりはしないようにと。ガードのために、やたら大きな包帯を巻かれた。軟膏と化膿止めの薬を処方されて、病院を後にした。

 この程度の怪我で良かったわねとは、カミさんの弁。たしかに、その通りだと思った。しかし、この先怪我が後を引いて、不便が生じる恐れはあるだろう。まず頭に浮かぶのは、楽器の演奏ができなくなる事である。実際、事故が起きた直後に頭をよぎったのは、楽器のことであった。左手の親指だから、チャランゴの演奏にはほぼ影響がないだろう。ケーナに関しては、裏穴を押さえる指なので、傷跡がしこりのようになったら、影響が出るかも知れない。咄嗟にそのような事を考えたのであった。




ーーー3/25−−−  我が家のピアニカ


 テレビ番組で、鍵盤ハーモニカの工場が紹介されていた。それを見てカミさんが、思い出したように、「うちのピアニカは、○○子(長女)が幼稚園の時に買ったから、サイズが小さくて(鍵盤数が少なくて)、小学校に上がってから不自由をしたようよ」と言った。

 ピアニカとは、鍵盤ハーモニカの一つの商品名である。小学校で使う物は32鍵が一般的だが、我が家のは25鍵。鍵盤が少ないという事は、音域が狭いということである。高音や低音の端の方で、他の子の出す音が、自分のピアニカには無いという事も起きる。「そういう場合、どうしたのだろうか?」と聞いたら、「飛ばして吹いていたんでしょう」とカミさんは事も無げに言った。

 先日、そのピアニカを使う機会があった。久しぶりに取り出して、目にしたケースには、我が家の三人の子供たちの名前が、重ねるようにして書いてあった。長女のみならず、長男も次女も、この「お下がり」のピアニカを小学校で使っていたのである。音域が狭いのに、平気でそれを使わせる親。そして、それでも不満を言わずに使う子供たち。周囲に合わせることにあまり気を使わない我が家の家風が、この一件にも見て取れた。

 さて、先日の機会とは、昨年末に、教会の聖歌隊のキャロリング(出張演奏)を行なった際、音出しに使ったのである。キャロリングの合唱は、アカペラ(無伴奏)で行なうので、歌い始める前に、各パートの最初の音を与えなければならない。それを、持ち運びに便利なピアニカで行なうのである。前年までは別の人が担当していたが、昨年はその人が参加できなくなったので、たまたまピアニカが自宅にある私が役を引き受けた。

 事前に、教会のオルガにストと打ち合わせをした時に、音域が外れて出せない音があると指摘したら、「オクターブ変えて出せばいいのよ」と言われた。専門家は、大らかなものである。

 テレビで見たのは別のメーカーの工場だったが、品質に関する厳しいこだわりが印象に残った。我が家のピアニカは、40年近い歳月を経て、いまだに使え、役に立っている。子供用の楽器とはいえ、ちゃんと作られており、製造者の心意気が感じられた。